私にとって4月1日は、祖母と母を失った日です。
この二人に共通しているのが、自宅で家族の見守る中で亡くなった事です。
現代の我々は、大概の場合、病院で生まれて病院で死にます。
自宅で死ぬことは、理想ですが、風呂場やトイレでの突然死や階段からの転落等で亡くなる事故死を除いて家庭内で死ぬ
事は少ないのが現実です。
家は、本来人が生まれ生活し、そして死んでいく場所のはずでした。
我が家も祖母が居た時、両親と我々と我々の子供達の四世代同居の八人家族でした。
家で死ねなくなった原因の一つに核家族化が挙げられるでしょう。
家庭で病人が、出ても看病する人がいないのです。
明治や大正の小説の文章の中に家庭内で療養しているシーンが出て来ます。
そこには家族以外にお手伝いさんが居たり、患者の心を和ます花の咲く庭があったり、近所からの訪問者があって外から直接縁側に座り込んで喋っていったりするのです。
マンションの生活に病人の目の前に展開する庭は造りにくい。
外から直接上がり込む縁側は、望むべくも無く。
急に調子が悪くなっても隣近所に親切に連絡してくれる親しい人も居ない。
結局都会では、入院ぜざるを得ないのでしょう。
4月1日は、私にとって厄日ではありません。
母と祖母を失った日ではありますが、家庭の中で家族全員で見送れたことが大変幸せであったと感じることの方が大きかったからです。
送る側も送られる側も互いに感謝できたからです。
家作りした者の最大の喜びは、良い家を作ってもらったと感謝されることですが、どんなに立派な家を建てられてもそこでの暮らしが不幸なものでは、残念です。
家は、人間が精神的に裸になる場所です。最も寛ぐ場所です。
それ故に余り干渉されたくない場所でもある訳で、自由で居たいと思う場所なのです。
そう言ってしまうと結局一人が一番となってしまうのでしょう。
後進国に寝たきり老人は居ません。と言うより元気でなければ生きて行かれないと言うのが、正しい表現かもしれません。
誰もが元気でいたいはずですし、病気になって家族に迷惑を掛けたいとは思っていないはずです。
家と言うのは、そう考えて行きますと立派な設備や材料や仕様だけでは健全とは言えず、そこに住む人が集い、楽しむ生き方と同時に同居の家族への思い遣りや気配り無しには成り立ちません。
他人に出来る事が、なぜか身内には出来ないし甘えてしまう。しかし、これが実は家を持つことの最大の課題の様です。
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