家の話.3

家の中に必ず仏壇・神棚のあった日本の家屋。
庭先にはお稲荷さんを祭ってあったりもします。
我々は、ついこの間まで八百万の神と一緒に生活していたのです。

「いただきます」「お蔭さん」は、日常的な神様への挨拶からきた言葉です。
八百万の神とお付き合いしていた生活から、ニュータウンに住んで、神社の氏子でも無くなり、寺の檀家でも無くなり、家に仏壇も神棚も無い生活となった多くの日本人の生活。
生活様式が変れば精神が変って来ても不思議ではありません。
信仰心とは関係なく、意識されずに日常的に使われていた挨拶の言葉が、使われなくなったり、無くなる事は残念です。

信教の自由が在って、日本では街づくりの中に特定の宗教施設はありません。
この事は、世界の街づくりと比べますと以外に特異です。世界の町には必ずと言っていい程、中心に教会やモスクがあります。礼拝は、多くの人々の間では習慣であり生活の一部だからです。

私も無信仰の割には、よくお経を読みます。
神や仏ほど一方通行で無言の相手は居ません。願いも叶えくれないと諦めながらも続けています。
でもその意義は、やはり身近に亡くなった過去の人と向き合えると言うのが一番大きいでしょう。私の場合それは祖母や両親の後ろ姿から教えられたのだと思います。

古来、言葉は意志疎通の手段であって、人を誹謗中傷する手段ではありません。
人の言葉は暖かいのが本来の姿であったはずです。
コミュニケーション出来る言葉が在ること自体が有り難い訳で、神仏との付き合いは、生涯聞き届けてもらえない為、逆に一生続けられるのかもしれません。
その努力(自問自答)があって我々は、きっと友人や知人と上手く付き合って行けるのです。

仏壇や神棚が家庭から無くなり、人心が社会や他人に対する不平や不満に偏ったと言ってもそれは一つの原因に過ぎません。
仏壇や神棚は手段であって家にあってもホコリだらけで活用されなければ全く意味がありません。
失った形を復活させた所で失われた心が呼び戻せる訳ではありません。それを伝えていく心まで家は、与えてはくれないからです。

生かせるのはそこに住む“人”です。

2005.6.22