映画『椿山課長の七日間』

働き盛りに脳溢血で突然死した椿山課長、あの世の入り口(中陰役所)で遣り残したことがあるので戻してもらいたいと、懇願します。西田敏行演じるデパートの課長は、生前の姿ではなく親族や関係者に判らない様に伊東美咲演じる美女となって初七日までの残り三日間だけの条件で現世へ戻っていきます。

あの世はどんなものか体験が無い以上掴みにくいのですが、帰っていく先はローンで買った家であり、職場はデパートと言う建物です。サラリーマンは、基本的には家庭と職場の往復ですから戻って行く先も結局は限定されます。これは誰でも共通 で判り易い。

我々が生涯で過ごす空間は、限られていて以外に狭い。
アマゾンの流域やアフリカには生涯を通してジャングルから出ない人もいますからまだ我々の活動範囲は、広い方です。
しかし、生活の中心となる場所といえば我々にとっても本当に限られています。

映画では死んでからでは、遅いとは言うものの椿山課長の知らないことが身近な人間関係の中からも次から次へと出てきます。
家族・職場の同僚、部下から付きつけられる新しい事実に死んでも死に切れない事態となって物語は展開して行きます。

映画と言う映像を見ていましても家も職場も小さな空間です。
外に出て通りを歩き青空が見えて並木沿いに歩いているシーンだけでも、広がりの違いを感じてしまいます。
サラリーマンの場合、生涯を掛けてローンを返済してマイホームを手に入れます。目的は、生活の基盤となる“安心・安全・安泰・安楽”等を手にする事ですから仕方ないですが・・

この限られた空間である家庭も職場も我々建設業がつくる空間です。
下手をすると人生のほとんどを過ごすわけですから伸び伸びとした広がりと空間が欲しいと考えて当然です。

日本の家屋の特徴は、自然に向かって広がる開口部です。又は、自然風に作られた庭に向かって作られた開放的な広がりです。
鳥の声が聞こえて四季ごとに咲く花が見られる。何に対して向き合っているのか、自然に対してです。
ところが今は、近所の目、世間の目、人の目に対しているのではないでしょうか?

2006.9.16の朝日新聞の(天声人語)に
「私たち日本人全体が理念や理想を必要と思わず、今もって“社会”ではなく“世間”の中で生きているからにほかならない」
“世間”とは「金や名誉、義理」などへの関心でできた世界のことだ。 とあります。

椿山課長が、必死の思いで守ってきたつもりの人間関係。何もかも順調で上手く行っていたと思っていた人間関係の裏に潜んでいた嘘。それはあまりにもとっぷりと浸かった“世間”に対峙していた為に起こった悲劇の様に見えます。

このドラマの解決の糸口も“自然”に戻すことから流れ始めます。
人間関係に縛られ、雁字搦めの都市での生活のあまりにも不自然であったことから開放されることで心まで開放されていきます。

自然の流れ、自然の力の偉大さを知る瞬間でした。

2006.11.20