お経を唱える習慣

圓照寺さんの『観音経を読誦する会』に毎月参加させてもらっています。
真言宗のお経には、鹿児島の最福寺 池口恵観先生との出会いがあり、それ以来自分が一番よく唱えるお経は真言宗で使われる経となっています。
お経の習慣はお坊さんか年寄りが唱えるものと相場が決まっている扱いですが、実際に続けてみますとそれなりに歌を歌うことと余り違いの無いことに気づきます。

楽しい時に鼻歌が出る様に、不安な時はお経を唱える。元気を出したくて歌を口ずさむ。
人には、心理的な要因に対して行動することで不安を解消しようとする場合があります。その時は、知った歌でもお経でもいいように思います。
観音経のことは、お寺で詳しくご教授いただいているので、もう少し理解していないといけないのですが、話を聞いているだけでは、よく寝てしまい未だにまだ内容のよく分からない不甲斐無い私です。

お経は、聞いているだけであればよく寝れるリズムです。
生きている間に分からないのですからまして死んだ人にお経の内容は、さらに伝わらないと思いますが、導師の唱えるお経のリズムの上で確かに安らかに永眠できる可能性はあると思います?

お経の内容は、難しいです。退屈で難しいですが一緒に声に出している時にさすがの私も寝たことはありません。
難しいお経を何度叫んでも悟りは開けないと思いますが、お坊さんについてお経が上げられる様になれたことは、継続の賜物だと思います。
信心は、身内と死に別れて(私の場合は両親)少し身に付きます。墓参りや仏壇に手を合わす時の気合が変わります。

お経の意味は、ほとんど理解していないのにお経を唱えていると言いました。
でもお経を介してお坊さんやお寺さんを見ると宗教の意味が少し見えて来る様な気がします。お坊さんもお経も、葬式や法事の時だけに使うものではないと思います。
我々は、集団でしか生活できない弱い生き物です。その集団の中で、楽しい日もあれば反面 打ちのめされ疲弊している日もあります。
お経で空腹は、凌げませんが、一緒になってお経を揃えて唱えている間は、共通 の境地に入れる瞬間があります。

お堂は、その点で音響効果の良い事が求められると思います。
お坊さんのお経が響いて心地よく聞えることが大事です。そしてそのお堂の中で一緒になって唱える人たちもカラオケボックスのエコーの様に自分達のお経が上手く聞える方がいいはずです。
お経の最大の意義は、力強く我々を励ましてくれることです。 鹿児島の最福寺では、毎回食事の前は『般若心経』を三返し唱えます。
朝6時に鐘を撞きますが、その時は『般若心経』を七返し、『不動明王』『弁財天』『光明』の各ご真言を七返し行った後に合掌の上、鐘を“六つ”撞きます。

最福寺のお坊さん達は、太鼓が非常に上手です。お経とご真言を唱える間は、リンと太鼓と鍋の蓋を合わせた様なチャッパを使い賑やかに盛り上げます。
池口先生は、信者を鼓舞することが僧侶の重要な仕事だと言っている様にも思います。
ここでは、死者にささげる経ではなく、生きている者の修行として、人間への応援歌として経が唱えられるのです。

2007.9.28