対面キッチン

天気の良い暖かい4月5日の土曜日に事務所に居ますと、今日は万博公園に向かって歩く人が大勢います。目的は満開のさくらだと思います。
明日の日曜日までは、天気予報は「晴れ」です。明日はもっと大勢の人になるでしょう。

詩人 杉山平一の『桜』の詩

毎日の仕事の疲れや悲しみから
救はれるやう
日曜日みんなはお花見に行く
やさしい風は汽車のやうにやってきて
みんなの疲れた心を運んでは過ぎる
みんなが心に握ってゐる桃色の三等切符を
神様はしづかにお切りになる
ごらん はらはらと花びらが散る

日曜日の一日だけでも、満開の桜の木を見上げて春の息吹を感じる機会に恵まれるのであれば、庶民としてこれほど至福の時はありません。
まだ学校も春休でもあり、家族連れが多く見られます。
漸く訪れた春の休日に家族一緒に戸外へ繰り出すのは好い事です。

話は変わりますが最近キッチンは、対面式が多くなりました。
子供が小さい間、子供を見ながら炊事が出来るというのが選択の主な理由です。
それと家族の食事時間がまちまちになっていることも在ると思います。
対面キッチンの前のカウンターが食事の場所になっています。家族がテーブルを囲んで全員で食事をする機会が少なくなっているのです。
一家に子供が少なくなって、子供中心の生活です。子供がお腹を空かせばそれが食事の時間です。

昔の日本の食事は、父親が帰って来てから始ります。家族全員揃っての食事が当たり前でした。父親が食事をするまでは待たされたのです。
なぜなら、その食事は父親の働きによって食べられるからです。
そんな封建的な事と思われるかもしれませんが、家庭の食事は以前は父親が参加してから始ったのです。

父権が失墜して家族崩壊が始っていると指摘する人がいます。社会に出れば、序列はあります。
現在、家庭の中で父親は稼いできても遅く帰ってくる父親の食事は一番最後になっていませんか?

食事は本来楽しいものです。
家族全員で食べればもっと楽しいはずなのに、帰ってきたものから順番に食べて空腹を我慢することはしません。
暫くの飢えを我慢できなければ、社会に出ても食べれる事への感謝の心は芽生えません。

食事に間が無くなったのです。間が悪くなれば、あらゆる社会秩序は乱れます。
ましてや一人っ子で育てば、横から食べ物を横取りされることさえ経験することが無いのです。
両親が共稼ぎで、鍵っ子であれば一人でカウンターで「いただきます」と言っても誰も答えてはくれません。
食事は本来味覚だけでするものではありません。五感(視覚・聴覚・触覚・臭覚そして味覚)をフル活用して楽しむものです。
音楽やテレビを相手にするのではなく、やはり人間が一緒の食事が五感を最も育てるのではないでしょうか!

2008.4.5