お経を唱える習慣2
2008年12月26日付の読売新聞 編集手帳に茨城県鉾田市の小学校5年生の詩『ゆめ』が紹介されていました。

「今朝 死んだお父さんから 電話がかかってきたゆめを見た
ぼくは受話器をにぎりしめて 会いたいよって 泣きながら話していて 目がさめた
お父さんの声が いつまでも耳にのこった」

である。

民間援助団体「ペシャワール会」の職員伊藤和也(31歳)さんが昨年8月にアフガニスタンで武装集団に殺害されました。
母順子さん(56歳)の12月の会報の手記も同文中に紹介されています。
よくぐずった赤ちゃんの昔を回想し、事件を境に父正之さん(61歳)の酒量が増えた事を告げ、供えるためだけのケーキを誕生日にこしらえる気の重さを語り、手記は息子に呼びかけて結ばれている。

「ではいつものように言うからね 元気でね 身体に気をつけてね 今度いつ帰れるの お母さんのいる時電話してよ 行ってらっしゃい」

私も仏壇にお経を唱える習慣がありますが、どんな有難いお経より、母の語りかける言葉の方がはるかに心に響く。
母の心の中で、いつまでも生きる続ける息子。
仏壇に向って、電話で喋る事を求め、行ってらっしゃいと無事を祈る。
親が居るから力がもらえ、子が居るから力が発揮できる。
これが“観音力”に違いない。
仏様相手ではない、相手はいつまでも息子さんなのだ、 お経など唱えなくてもいいのだ。
そんな気がする。

2009.1.23