帰郷2

父親が脳梗塞で1ヶ月余りの入院の末、国立病院で死んだ時、担当医や看護師さんは我々遺族に対して言い訳をしました。
我々家族は、既にリハビリの病院への転院の説明を受けていましたし、退院が近い事を知らされていたからです。
傷痍軍人で障害者であった父は、家族に介護されながら迷惑を掛けてまでは生きる気は無かったと思います。最後はそんな感じの幕切れでした。
看護師さんやお医者さんの居ない隙につながれていた点滴や血圧計や脈拍計を全て自分で振り外して病院側が気付いた時には既に危篤状態となっていました。
満89歳と10ヶ月でした。最後の入院1ヶ月以外、頑張ってギリギリまで独立独歩で自立した生涯でした。経済的にも家族には負担を掛けることはありませんでした。

ソビエトと満州の国境付近のノモンハン事件の全滅に近い部隊で25歳で傷痍軍人となって生き残った父にとって社会の厄介者になって卑屈には生きたくは無かったのでしょう。何度かの大きな手術と補助具を使う事により杖を使う程度で生活できるまでになった段階で社会復帰し、定年退職までの38年間を障害者では在りましたがサラリーマンとして生活自活し、私を含めて3人の子供を育てました。

『病んで気づく世界あり 老いて味わう境地あり』といいます。
大正4年生まれは、頑固でも在りましたが、我慢強く努力した一生であったと思います。

鹿児島市中町が父の本籍地です。県立鹿児島第二中学校(現在の鹿児島県立甲南高等学校)を卒業し、大分高等商業(現在の大分大学)へ進んだため、大分や宮崎にも縁故者が多く 社会人になってからも門司や熊本にも移り住んだ経緯があり九州には特別 の思い入れがあったと思います。
今は、単身赴任が当たり前の様ですが、我々の時代は転勤のたびに家族も一緒に当然引越しでした。
引越しの度に道路事情はまだ悪く、瀬戸物は割れ、家具はガタガタでした。
兵庫の三田市に墓を購入しましたが、鹿児島市草牟田の墓地にも分骨をしました。
父は自分の両親のこよなく愛した鹿児島に最後は帰る事が希望でしたから。

いつも思うのですが、鹿児島の墓の花は立派です。
鹿児島は、仏花の消費が日本一と聞いた事が在ります。墓も仏壇もお供えの花の筒が大きいのが特徴で、墓に立って周囲を眺めますと綺麗な花満載の墓地を見ることが出来ます。
先祖供養に金を惜しまない県民性がそこに伺えます。

日豊本線で鹿児島に入りますと、桜島を見ながら鹿児島駅に着くことが出来ます。
宮崎の延岡に親戚があり、延岡に寄ってから日豊本線で桜島を眺めながら鹿児島に入るこの帰郷はお気に入りのコースです。
延岡で伯父が迎えに行くと約束していたのにいっこうに来なかった事が在りました。駅から電話すると「なんじゃ定刻に着いたか!」と言ってのんびり迎えに来てくれた事が在りました。今のJRでは考えられないゆったりした時代でした。
祖母が危篤となった時の鹿児島からの連絡は伯父からの電報でした「ハハ キトク スグカエレ」今でもその文章を覚えています。
家に電話が無かったので近所に電話を借りに行き父が電話をして鹿児島を呼び出すのも30分以上待されました。
まだまだ遠い故郷を実感したものです。

2009.3.3