帰郷3

叔母は、戦後満州から引き上げてきました。私にとって従姉妹である当時幼い娘を二人連れて、満州鉄道の病院の勤務医をしていた主人と無事、鹿児島へ帰還して来たのです。
大正6年生まれの大陸からの引き上げ体験者は、昨年91歳で亡くなりましたが、娘が3人居たにも関わらず医者の叔父が亡くなった後、死ぬ まで一人住まいを通しました。
1階が医院で2階が住まいで戦後間も無く建てた質素な家を改装しながら最後まで思い出の家から離れる事は、ありませんでした。
着の身着のままで帰ってきた叔母夫婦に伯父連中が、場所を段取りし、まだ建材の十分無かった時代に一部古材を使用しての建築であったと聞いています。
それでも私の母などは、終戦直後早々に家が持てた事を羨ましいがっていました。
叔父は、開業医をしながら税務署の産業医、地方放送局の役員もしながら田舎の診療所のスタイルを崩すことなく地域医療に取り組み、胸を患い76歳で個人医院を廃業した後、友人の病院で半日勤務医をしながら83歳で亡くなるまで現役で過ごしました。
我々が帰郷すると何時も小遣いを渡してくれ、運転できるようになってからは車を借りたりしましたが、その生活ぶりは質素で戦後間も無く開業した診療所を順次修理しながら最後まで基本的には同じスタイルで医院経営を遣り通 しました。
叔父が亡くなってからも叔母が住んでいましたので、帰る度にその家を訪ねましたが、子供の頃から知っている外観や入り口が同じであるため、その医院の待合室は、いつまでも懐かしい場所でした。
戦後無一物で帰ってきた人達は、慎ましい生活でも戦争体験で周囲の多くの死と接した経験からそれでも十分贅沢と感じていた様です。
“親のお蔭”などと言う言葉は既に死語になっているのかもしれませんが、親の兄弟同士が仲良くしてくれたお蔭で、伯父や叔母にも可愛がってもらえ、従姉妹同士も仲良く出来た事は、人生を本当に豊かにしてくれたと思っています。

私の父親は10人兄弟の五男で下に叔母が3人居ましたが、現在もう叔母と言える人は1人だけになってしまいました。
親戚の伯父や叔母が私に何かを教えてくれた訳では在りません。
しかし我々に優しく接してくれた事で多くの事を学べたのだと思います。
若くて亡くなった伯父や伯母もいますが、最後まで逞しく生きた人達ばかりで人生の先輩として参考になる人達ばかりでした。
その人達から平和で穏やかな人間関係を結果として学んできたのだと思います。

その叔母は、90歳を超えても一人で暮らしていて、娘婿に私の姉からのもらい物があるから取りに来いと電話で連絡があり、夕方に取りに行って覘くと倒れていたという事でした。既に呼吸は無かったらしいのですが、まだ体も温かかったらしく救急車を呼んだり警察が来たりと慌しかったらしいのですが、突然死で最後まであっさりとした生き方でした。

叔母の温かい丸い手を思い出しました。
叔母は別れるときいつも両手で握手して「又、おいでね」と言ったからです。
鹿児島には、伯父や叔母は居なくなりましたが従姉妹が元気な内に又、集まろうと言ってきます。
私の親父は、入院して1ヶ月で亡くなりましたが、前日まで焼酎のお湯割で晩酌をし、91歳で死んだ叔母は、一人暮らしで最後まで頑張りました。

鹿児島に台風が通過する度、活火山である桜島が爆発する度、何時までも気になる鹿児島です。

2009.3.11